平安藤原をかた朗記 CLM

マリーンズ高卒ドラ1カルテット マリーンズの平安藤原こと平沢大河選手 安田尚憲選手 藤原恭太選手 そして佐々木朗希選手の情報をまとめながら応援するブログです。マリーンズの情報もまとめております。

    タグ:阪神タイガース



    200 名無しさん@恐縮です :2021/10/31(日) 19:25:04.15

    大学の卒アルに載ってる。荒川静香も。


    【【ロッテ】鳥谷敬が現役引退 レジェンドが18年の現役生活にピリオド】の続きを読む



    600 名無しさん@恐縮です :2021/11/01(月) 12:33:59.58

    >>84
    鳥谷の飛距離じゃハマスタや神宮でも年間1~2本増えればいいほう


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    1 Anonymous ★ :2021/07/09(金) 23:30:19.48

    7/9(金) 19:41
    https://news.yahoo.co.jp/articles/406639b2aacbb69c85361ea08f1fac80f64b98b0

    ◆JERAセ・リーグ 阪神―巨人(9日・甲子園)

     白熱した首位攻防の一戦で、右翼席に「帰れ!」コールがこだました。

     阪神の2点リードで5回が終了し、6回表が始まる直前に突如として阪神ファンが「帰れ、帰れ、帰れ!」と大合唱を始めた。新型コロナウイルスの観戦対策として、スタンドで大声を上げることは禁止されているが、場内に大音量が響き渡った。

     阪神ファンが右翼スタンドにいた巨人ファンともめた模様で、警察官、警備員が仲裁に入った。正々堂々とした勝負が行われている中で、後味の悪い事態となった。


    【【検証】右翼席から阪神ファンが「帰れ!」の大合唱で場内に大音量 巨人ファンとトラブルか】の続きを読む


    鳥谷 敬(とりたに たかし、1981年6月26日 - )は、東京都東村山市出身のプロ野球選手(内野手、右投左打)。千葉ロッテマリーンズ所属。 ロッテ移籍前は2004年 - 2019年にかけて阪神タイガースで16年間プレーし、日本野球機構(NPB)の一軍公式戦1939試合連続出場、13シーズン連続全試
    107キロバイト (14,879 語) - 2020年5月14日 (木) 15:20



    (出典 pbs.twimg.com)



    1 風吹けば名無し :2020/06/05(金) 15:25:02 ID:+T/ZOTXM0.net

    上げてきたな


    【【悲報】千葉ロッテ 鳥谷敬(38) (17ー0).000】の続きを読む


    阪急阪神東宝グループ > 阪急阪神ホールディングス > 阪神電気鉄道 > 阪神タイガース 阪神タイガース(はんしんタイガース、英語: Hanshin Tigers)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。本拠地は兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場。日本に現存するプロ野球12球団の中では読
    207キロバイト (31,604 語) - 2020年5月8日 (金) 13:19



    (出典 hanshintigers.jp)



    1 砂漠のマスカレード ★ :2020/05/12(火) 18:32:53 ID:P7Gz8v9y9.net

    1950年、プロ野球が2リーグに分裂してから今年で70周年を迎える。数え切れないほどのドラマが生まれてきた中でも、1985年の阪神タイガースの日本一は未だに語り継がれ、その後の低迷期も含め、多くのファンの記憶に残っている。阪神はなぜ、栄光の日本一から一気に転落していったのか。ベテラン野球担当記者がトレードやFA補強に注目して分析する。(文中敬称略。年齢はその年の満年齢。名前は当時)

    「1985年の優勝は先頭打者の真弓明信、クリーンアップのランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の破壊力が群を抜いていた。これは衆目の一致するところでしょう。それに加え、ベテランの移籍組も要所で活躍していた。

     36歳の弘田澄男は前半戦、2番・センターで主軸につなぐ役割を果たし、日本シリーズでも全戦先発出場した。35歳の長崎啓二は右投手の時のスタメンや代打の切り札で欠かせない存在で、西武との日本シリーズでは第6戦で先制の満塁ホームランを放ち、日本一に貢献しました。同じく35歳の永尾泰憲は左の代打としてシーズン打率3割を超えました」(以下同)

     弘田は1984年にロッテから藤倉一雅、長崎は1985年に池内豊との交換トレードで、永尾は1982年に近鉄から金銭トレードで阪神に。30代半ばのベテランが最後の一花を咲かせていた。

    「1980年代に入ってから、阪神は実績のある選手をトレードで獲得していました。1983年に横浜大洋から野村収が加藤博一との交換で、1984年に南海から山内新一が無償で入団した。2人とも通算100勝以上の投手でしたが、1985年は野村が39歳、山内が38歳と全盛期を過ぎており、1勝ずつに終わりました。ただ、移籍1年目は野村が12勝、山内が7勝と復活しました」

     ベテランの獲得は即効性があり、短期間で見れば効果はあった。1985年の日本一で味をしめたのか、阪神は翌年以降も30代の選手をトレードで獲得していく。

     1986年、34歳の柏原純一は日本ハムから金銭トレードで移籍し、規定打席未満ながら打率3割1分3厘、17本塁打と相次ぐ故障に泣いた掛布の穴を埋めた。しかし、翌年からは低迷し、在籍3年で現役引退した。そして1987年には、優勝メンバーで26歳と脂の乗った吉竹春樹、23歳の左投手である前田耕司を西武に放出し、33歳の田尾安志を獲った。

    「1981年から4年連続3割を打っていた田尾は1985年、中日から西武に移籍。パ・リーグの水に合わなかったのか、2年間不振を極めた。それでも、阪神のフロントはセ・リーグに戻れば変わると見込んだのでしょう。しかし、1年目の成績は打率2割2分1厘とさらに落ち込みました。田尾は翌年、3本のサヨナラ本塁打を放ち、規定打席不足ながら3割を打って復活しますが、37歳の1991年限りで引退。吉竹は堅実な守備を売りに黄金期の西武で準レギュラーとして1995年までプレーしました」

    ◆トレードで放出した野田はオリックスで最多勝

     1987年は田尾だけでなく、打者も投手も全く調子が上がらず、勝率3割3分1厘で最下位に沈んだ。球団史上初の2年連続最下位に終わった1988年には31歳の金森永時が西武から、30歳の久保康生が近鉄から、1989年には31歳の住友一哉が近鉄から交換トレードで移籍。低迷にあえぐチームの中でそれなりの働きをしたように、この頃のトレード全てが失敗に終わったわけではない。しかし、1990年代に入ると補強の失敗がさらに目立ってくる。

    「阪神は1989年5位、1990年6位と下位に定着してしまいます。打開策として1991年にダイエーと4対5のトレードをしたが、結果的に大損した。ダイエーに行った池田親興は抑えとして復活を果たし、大野久は盗塁王を獲得した。南海時代2ケタ勝利を挙げていた藤本修二や西川佳明は1勝も挙げず、わずか2年で阪神を去りました。池田は1985年の優勝以降、伸び悩んでいましたが、大野久は村山実監督が和田豊、中野佐資とともに“少年隊”と名付け、1989年には3割を打っていた。我慢して育てた選手を放出したように、球団に一貫性がなかった」

     同じ1991年には、23歳の遠山昭治を出して、ロッテから33歳の高橋慶彦を獲得。しかし、高橋慶彦はオープン戦の始球式でタレントの山田雅人からデッドボールを食らったことが話題になったくらいで、打棒は影を潜めた。

    5/12(火) 16:05 Yahoo!ニュース
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200512-00000014-pseven-spo


    【【検証】阪神1990年代の暗黒時代を生んだ「ベテラン補強」の失敗】の続きを読む

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