「オープン球話」連載第52回 第51回を読む>>
【極端に細いバットを使っていた長嶋一茂】
――前回は長嶋一茂さんについて伺いましたが、今回もその続きをお願いしたいと思います。「一茂については、いろいろ話したいことがある」とおっしゃっていましたね。
八重樫 前回も言ったけど、本当にポテンシャルが高い男だったんだけど、本人が本気で取り組まなかったのがもったいなかったね。
――立教大学時代には、東京六大学リーグで11本塁打を記録しています。打者としての才能はどうだったんですか?
八重樫 打者としても並外れた才能がありましたよ。飛距離もすごかったし。でも、アイツは何も考えていないから、バット選びもいい加減だったんだよね。誰に聞いたのかわからないけど、「グリップの細いバットを使えば飛距離が出る」と言って、ものすごく細いグリップのバットを使っていたんです。でも、そういうバットはバットコントロールがすごく難しい。ノックバット程度の細さだったんだから。
――誰かから聞いた情報を、鵜呑みにしてしまったということですか?
八重樫 そう。イチローのように芯に当てることがうまい選手なら、そういうバットでもいいと思うよ。でも、一茂の技術じゃ、あんな細いバットは使いこなせない。だから、なかなか芯に当たらないからフリーバッティングでも、何本もバットを折るんです。2、3球続けてバットを折って、そのたびにバットを取りに戻るから、なかなか順番が進まなかった。
――八重樫さんはその点を本人に指摘しなかったんですか?
八重樫 もちろん本人にも言いました。「一茂、細いバットで遠心力を使ってボールを遠くに飛ばしたいっていう気持ちはよくわかる。だけどな、芯の幅を見てみろよ。たったこれだけの細い幅だぞ。お前の今の技術で芯に当てるのはかなり難しいことだぞ。実際に何本も折っているじゃないか」って。
――そうしたら、どんな反応が?
八重樫 あまり納得していなかったんじゃないかな。「こっちのバットを使ってみろよ」って少し太めのバットを渡したら、一度だけそのバットを使っていたけど、そのあとは元の細いバットを使っていたね(笑)。
【遠慮なく言える指導者が周りにいなかった】
――それでも、1988(昭和63)年のルーキーイヤーではオープン戦で3割を打ったし、4月には巨人のビル・ガリクソンからプロ初安打をホームランで飾りました。上々のスタートダッシュだったと記憶していますが?
八重樫 ガリクソンからのホームランはたまたまだよ(キッパリ)。甘いボールを思い切り振ったら、バットに当たっただけ。でも、バックスクリーンまで飛ばすんだから、パワーと飛距離は本当にすごかったよね。指導者の言うことを聞かずに、ずっと自己流を貫いていたから、せっかくの才能も生*ことができなかった。結局、1年目がいちばん試合に出ているんじゃないの?
――そうですね。1年目が88試合でキャリアハイ。ヒット数は1988年が38安打、1989年が39安打で自己最多。以降は少しずつ減っています。
八重樫 当時の関根(潤三)監督がお父さんの長嶋茂雄さんと仲が良かったから、「何とか大成させよう」と大切に育てたけど、結果的にうまくいかなかったよね。のびのび自由にやらせるんじゃなくて、周りにもっと厳しく遠慮なく言える指導者がいたら、結果もまた違ったんじゃないかな?
――1989年限りで関根監督が退任。一茂さんのプロ3年目となる1990年からは野村克也監督が就任します。両者の関係性はどうだったんでしょうか?
八重樫 あんまりよくなったと思うよ(笑)。野村さんの中にも、「一茂を一人前にしたい」という思いはあったと思います。でも、一茂は自由奔放なところがあるから、野村さんとは性格的にも合わなかった部分もあったんじゃないかと。テスト生あがりの野村さんと、小さい頃から何不自由なく育てられて、ドラフト1位で華々しく入団してきた一茂。すべてが正反対でしたからね。何しろ、ユマキャンプでも「野村ミーティング」を全然聞いていなかったから、野村さんもよく思っていなかったんじゃないかなぁ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/dff3b9d6857cac0d53724b8d307d879aa269ff44
2/18(木) 11:05配信
【検証】「清原和博クラスの選手になれた」八重樫幸雄が惜しむ長嶋一茂の才能
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